
批判とは、何のために、誰のためにするものなのだろうか。
それが明確でない批判というのは、結局のところ個人の感情の発露にすぎないのではないだろうか。
という雑記です。
批判の「成立」と「機能」
現代において批判は、SNSという場で行われることが多くなった。個人のブログや個人サイトではなく、SNSというマイクロブログで批判を展開する理由は何だろうか。*1
こうした現象の背景には「SNSは気軽に投稿しやすい」「人も多いから見てもらいやすい」というものがあるのだろう。確かにSNSは、批判を発信するハードルを大幅に下げた。
しかし、SNSの海に漂う批判を眺めていると、時折「この人は何のために批判をしているのだろう」と「何となく不愉快」に感じることがある。
こういうことを言うと「トーンポリシングだ」と覚えたての言葉で反発したくなる人もいるかもしれない。ただ、まずは話を聞いてほしい。
批判という言葉そのものの定義は、案外単純なものだ。辞書によれば、次のような意味になる。
1.物事に検討を加えて、判定・評価すること
2.人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること
3.哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること
引用元:『批判』とは? - コトバンク
そのため、批判が批判として「成立」している人は、それなりに存在する。
もちろんここでいう「成立」には「本人は批判のつもりでも、言語化がうまくいかず単なる好き嫌いや非難を述べているだけ」というケースは含まれない。また「真の知性や、社会的責任感を持ちつつ自ら研究・追求する専門家」も、今回の話からは除外したい。
問題をはらんでいるのは、大概「専門的な研究を自分ではしていないが、とても詳しい知識を持つ知識人(以下、知識人)」と「極端な無知ではないが、知った気になっている大衆(以下、大衆)」の間に存在する人々であり、知識人は大衆になり得るし、大衆も知識人になり得る危うさを抱えている。(層の事であって二項対立ではない点は留意してほしい)
この層の人々の批判は一方的に発せられた「言いっぱなし」で、「その批判が結局何を伝えたいのか」「その批判が何を目的にしたものか」がイマイチ伝わらないことが多い。つまり、批判として「機能」していないのだ。
例えば、批判が「内省の整理・言語化」を目的とするなら、それはそれで機能していると言えるだろう。しかし「機能」していない批判は、ほとんど「感情の発露」に近い。
一方的に思っていることをぶつけているという意味では、たとえその批判が一見もっともらしい言葉であったとしても、そこらへんに流れている会社の愚痴のようなものと大して変わらない。それが先に述べた「何となく不愉快」の原因かもしれない。
批判に対する感情衝突
批判というものは、特にSNSにおいては感情の衝突を多く生み出す。
そしてそれは大抵の場合、知った気になっている大衆が知識人に対して怒り、それに対して知識人が怒り返す構図になっている。
もし批判に何らかの生産的・建設的な意図があり、批判する人が真の知性を持つならば。たとえ意図を読み違えたような頓珍漢な反応が返ってきても、感情の応酬にはならないだろう*2。
そもそもの話。
XやBlueskyのような「無知寄りの大衆」が多くいる場で批判をしていれば、当然ながら分からないまま難癖をつけてくる人に絡まれるのは、どうしたって避けられないことだ*3。
それなのに知識人が、自分に難癖をつけてきた大衆を「XやBlueskyのユーザーは所詮こんなもの」「分かった気でいるだけの阿呆だ」と見下したとしたら、その言葉がたとえ事実の指摘だとしても、不特定多数から反発を受けることは想像に難くない。
知識人が、自分と同等もしくは上位の知識を持つ者と、真っ当で建設的な会話をしたいのであれば、RedditやNostrなど場はいくらでもあるだろう。
しかし「多くの人が使っているから」「専門家がたくさんいるから」「皆も移っているから」「Xの代わりになりそうだから」「サービス名に聞き覚えがあるから」というような理由で大衆向けのSNSを選んでいるのだとしたら、知識人もまたSNSというサービス知識(デジタルリテラシー)の前では明らかに「無知寄りの大衆」なのである。
もし影響力や社会的責任感、義務感から大衆向けSNSを選んでいるのだとしても、そこで大衆と喧嘩をして反発されてしまうようなことがあれば、結局伝わるものも伝わらない。怒りはSNSでは容易に燃え反発を生み、反発は理解を遠ざける。
つまるところ、その場所しか選べない、あるいはその場所を自ら選んだのは「知識人自身」なのだから、その意図や目的に合った「批判を機能させる」必要があるだろう。
終わりに
ここまで読んで、かーっと頭に血が上って何かしら言い返したくなった人がいたとしたら、先に述べた『「専門的な研究を自分ではしていないが、とても詳しい知識を持つ知識人」と「極端な無知ではないが、知った気になっている大衆」の間に存在する人』に、自分自身が該当するかもしれないという無意識の反応かもしれない。
何にせよ、批判をする人は一度「批判を何のためにしているのか」「批判が機能する場でできているのか」という点で、考え直してみるといいかもしれない。そうすれば、その批判はもっと良い形に昇華できるはずだ。