デジタルへの順応を「思考省略の免罪符」にすることについて(雑記)

今日はふわっとした雑記のみ。(SNSに投稿したもののまとめ直し)
ただ単に「自分の気持ちを吐き出したい」だけなら、言い方を気にする必要は無いだろう。(TPOは大事だけど)
しかしもし「誰かに何かを伝えたくて理解してもらいたい」のなら、読み手のことを考えた言い方をした方が効果的なのは、言うまでもない。
もちろん、現代人に増えてきている「極端に他人の発言に神経質な人」「好き嫌いが激しく、嫌いなものの排除を正当化する人」や「思考停止してる人」「都合の良いことしか信じたくない人」に、過度に配慮する必要はない。(改めて書くと地獄の様相だが…)
ただ、そういう人に対し『自由に発言すべき/配慮しすぎ』と主張する人を見ていると、たまに思うことがある。
その「自由」という言葉を、単に思いやりのない好き勝手な物言い、あるいは自身の社会性の不足を正当化する免罪符としている人も、中にはそれなりにいるのではないだろうか。
この手の話は、決まって物事を0か1、白か黒で判断したがる人には「どっちつかず」「中間的な意見」に見えるだろう。しかし、自分以外の他者を意識するのであれば、こうしたバランス感覚が必要なのは当然のことだ。
面白いのは、この「極端に神経質/思考停止」も「自由の名を借りた好き勝手」も、デジタルネイティブに強く見られる傾向ということ。(リテラシー問わず)
読み解く力、書く力、考える力が落ちている証左とも言えるのかもしれない。デジタルのドライで簡易的なコミュニケーションに慣れていたり、思考の外部化に依存してると、そうなりやすいのだろうか。
そしてこの「考える事の省略」が「デジタル環境への順応」と正当化されやすいのも、また問題だろう。
無論、デジタル環境そのものが悪いわけではない。
しかし「便利なものを適切に使いこなせない人も当たり前に使わざるを得ない時代」になったことで、適応する――正しくは「ついていけないものに無理矢理しがみついている」その過程で、自身の与り知れない無意識のうちに、能力が零れ落ちてしまっている可能性はあるだろう。
「他者の立場を考えながら、自分の意見を組み立てる」というような、時間のかかる思考プロセスは、意識的に維持しないと衰える。
「対話」を構成する言語化能力や思考能力、非言語的コミュニケーション能力の低下は、この「まどろっこしいことを省略していること」が、根底にあるのかもしれない。
ここまで書いておいて何だがこれは肌感を元にした主観なので、実際は違うことが起きている可能性もある。
その点については留意してほしい…と保身したところで、この辺にしておく。そう言っておかないと、自由の名のもとに言葉で殴ってくる人が寄ってくるかもしれないので。
💬投稿元
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